上野の黒門を見たこと

 
江戸の切絵図を見ると上野寛永寺の境内入り口に柵が描かれ、黒門と書かれています。
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黒門は彰義隊薩長の激戦地としてもよく知られています。
薩長軍の圧倒的な火力に包まれて、壊れるか炎上して無くなったものと思っていたのですが、
先日の広重ツアーで、本物の黒門を見ることができました。
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場所は三ノ輪の円通寺
明治40年、上野から移設されたそうです。

柱にはたくさんの鉄砲の穴が開いています。
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黒門付近の彰義隊を攻撃した薩長の鉄砲によるものでしょう。
ごらんのとおり黒門は素通し状態ですから、鉄砲玉から身を隠すのはほとんど不可能です。
彰義隊も切り込み隊を投入し、奮戦したそうですが、武力の差は大きく、
多数の死者を残して根岸方面に敗走します。

黒門のすぐうしろには彰義隊士の墓や供養塔が並んでいます。
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上野戦争後野ざらしになっていた遺骸を、円通寺の住職仏麿和尚、新門辰五郎らが
荼毘に附し円通寺に埋葬したということです。
彰義隊の副長だった天野八郎の墓や、明治期まで活躍した榎本武揚、澤太郎左衛門
などの顕彰碑も並んでいます。
詳しくは ここ

(注)澤太郎左衛門は海舟の弟子で、幕府最新鋭艦「開陽」の館長も務めた。
   鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜の大阪脱出をサポートした。
榎本武揚らと函館まで行動を共にし、明治期には海軍軍人育成にあたった。
円通寺彰義隊士の供養を続けた篤実の人でもある。