高山秀子 「追憶の藤沢周平 - 留治さんとかたむちょ父ちゃん」
「かたむちょ」とは頑固、いじっぱりという山形弁である。
この本に登場する「かたむちょ」は著者の父上である高山正雄さんである。
藤沢より17歳ほど年上で、藤沢は「父ちゃん」と呼んで終生慕い続けた。
藤沢は15歳になって鶴岡中学夜間部に入学すると同時に、
故郷の村役場で働き始めた。
高山氏もそのころ村役場に勤務しておられた。
高山さんは大変な読書家で、中国の古典から歴史書まで蔵書の量も
大変なものであった。
藤沢は高山さん家を頻繁に訪れて、本の世界に親しみ、
夜遅くまで語り合っていたという。
藤沢の歴史に対する関心もその中で育っていったようだ。
藤沢が本格的に小説を書き始めたのは30代後半であるが、
高山さんにはずいぶん早いころから歴史小説を書きたいという
想いを語っていた。
本書は藤沢周平の出発点の関する証言として大変興味深いが、
個人的には高山さん一家あるいは藤沢周平の語る庄内弁の会話が
圧倒的に面白かった。
・「あづこちゃん、泣がねてえ、泣がねてえさげの」
・「今日、留治がらごしゃがいだ」
・「あげなってしまうとおもしょぐねのー」
・「んだが、んだが。えがった、えがった」
・「留治さんや、具合はどげだやー」
「あまり良ぐねぐで、ながばっては起ぎで書き、またながばっては
起ぎで書いている」
藤沢は30歳ごろに庄内を離れ、それ以後東京近郊で小説を書き続けたが、
郷里の人々と深い繋がりを保ち、同じ言葉で結ばれていたことが伝わってくる。
「ごしゃぐ(怒る)」「おもしょぐね(面白くない)」「ながばる(横になる)」
といった言葉は、盛岡で暮らしていた私の祖母の家でも使われていた。
この本の中で上のような文章に出会うたびに、祖父母や親せきの大人がしゃべっている
ような不思議な感覚におそわれた。
それは快くなつかしい感覚だった。
この本に登場する「かたむちょ」は著者の父上である高山正雄さんである。
藤沢より17歳ほど年上で、藤沢は「父ちゃん」と呼んで終生慕い続けた。
藤沢は15歳になって鶴岡中学夜間部に入学すると同時に、
故郷の村役場で働き始めた。
高山氏もそのころ村役場に勤務しておられた。
高山さんは大変な読書家で、中国の古典から歴史書まで蔵書の量も
大変なものであった。
藤沢は高山さん家を頻繁に訪れて、本の世界に親しみ、
夜遅くまで語り合っていたという。
藤沢の歴史に対する関心もその中で育っていったようだ。
藤沢が本格的に小説を書き始めたのは30代後半であるが、
高山さんにはずいぶん早いころから歴史小説を書きたいという
想いを語っていた。
本書は藤沢周平の出発点の関する証言として大変興味深いが、
個人的には高山さん一家あるいは藤沢周平の語る庄内弁の会話が
圧倒的に面白かった。
・「あづこちゃん、泣がねてえ、泣がねてえさげの」
・「今日、留治がらごしゃがいだ」
・「あげなってしまうとおもしょぐねのー」
・「んだが、んだが。えがった、えがった」
・「留治さんや、具合はどげだやー」
「あまり良ぐねぐで、ながばっては起ぎで書き、またながばっては
起ぎで書いている」
藤沢は30歳ごろに庄内を離れ、それ以後東京近郊で小説を書き続けたが、
郷里の人々と深い繋がりを保ち、同じ言葉で結ばれていたことが伝わってくる。
「ごしゃぐ(怒る)」「おもしょぐね(面白くない)」「ながばる(横になる)」
といった言葉は、盛岡で暮らしていた私の祖母の家でも使われていた。
この本の中で上のような文章に出会うたびに、祖父母や親せきの大人がしゃべっている
ような不思議な感覚におそわれた。
それは快くなつかしい感覚だった。